これが真説!焼塩 (歯磨剤)と 忠臣蔵
専門家から見ると、コマーシャルで見る歯磨剤のうちいくつかは、怪しげで
「効くはずがないだろうに・・・、信じて買う人がかわいそう。」
と思ってしまうものがありますが、文献から推察すると、わが国で最初の歯磨剤は
塩
江戸時代、徳川家の将軍は毎朝六ツ半(七時)に寝所を出て、自分で顔を洗い、歯を磨きました。
歯磨剤は、奥詰口中医の調合した、歯磨粉、焼塩、細粉した松脂(まつやに)の3種類からその日の気分で好きなものを房楊枝(「つま」ようじではありません)につけて磨きました。
この将軍が使用する焼塩として五代将軍綱吉に献上されたのが、
赤穂の塩
です。
それまで徳川家の使用する塩は、三河吉良(吉良上野介吉央(きらこうずけのすけよしなか))から献上する
饗庭塩(あえばしお)
が使われていたので、赤穂の焼塩・塩の進出は強力な商売敵の出現を意味し、両家の経済上の対立は当たり前であったと言えます(*)。
(*)浅野長矩の時、赤穂藩の財政立て直しのため製塩法を習いに三河吉良の庄に家来を送ったという経緯もある。
このような状況下で、元禄一四年、浅野長矩(あさのながのり)に二度目の勅使接待役が回ってきます。
接待役指導役が、吉良義央。
吉良の浅野に対する感情はただならぬものがあり、何か触発するものがあると不慮の事態を引き起こすことは至極当然。
元禄一四年三月一四日、松の廊下(正しくはお成廊下)で浅野長矩が吉良義央に刃傷(にんじょう)に及びます。
俗説に両家の感情のもつれは吉良へ付届けが少なかったので、吉良が接待の仕切りなどを意地悪したように伝えられていますが、長矩は一七歳のときにすでに一度経験しているので仕切りについては十分承知していたはずです。
また「賄賂」を渡さなかったからとして伝えられているものの、当時は当たり前の
お世話料
として献上するのが礼儀であり、清廉潔白というよりも吝嗇(りんしょく(要するにけち、しみったれ))ではなかったかとの説もあります。
長矩は、生来大変短気で、偏頭痛持ちでした。
勅使接待で神経を使い、その持病が酷くなり怒りやすい状態にありました。
勅使を迎えた日が雨、刃傷(にんじょう)に及んだ日が曇天。
この病気は湿気が多いほどひどくなりやすいので、心身ともに疲労した長矩が前後の見境もなく、家来のことも考えずに発作的に刀傷に及んだというのが真説であろうということなのです。
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歯科の歴史 おもしろ読み本(長谷川正康著 クインテッセンス出版)
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歯磨剤と忠臣蔵の真実
について改変して書いてみました。
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